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毛利 衛 Mamoru Mohri

毛利 衛

Profile
日本科学未来館 館長

1985年北大助教授から日本人初の宇宙飛行士の一人に選抜され、1992年スペースシャトルにてアジア初の科学者として43の日米協力宇宙実験を成功させた。その後潜水艇しんかい6500にて深海実験や南極からの極地授業で世界中の若者に科学者としての夢を与えている。

このプロジェクトは現在と将来の日本社会へ向けて、新たな施策へのイノベーションをもたらすことを期待したいと思います。

10歳の時、私は夕暮れ時夜空にツーと走る光に胸をおどらせました。世界で初めての人工衛星スプートニクです。同じ年、砕氷船宗谷が南極観測に出発し、越冬隊が送ってきたオーロラの美しさに魅せられました。その後、13歳では人類で初めて宇宙を飛行したガガーリンにあこがれ、15歳には皆既日食を見て、私は自然科学者になる道をめざしました。十代は自分の周囲に敏感であり社会との関係でその後の人生が影響されます。体の変化とともに自我の確立へ向けて心が最も不安定な時期であることは大人の誰もが自分の思春期の経験から記憶があるはずです。現在、社会全体の急激な変化により、いじめや不登校、自殺をめぐり学校教育だけでは閉じてはいけない重要な社会問題として、その対策が急務になっています。この社会的な過渡期に、学術においても従来の個別的な調査研究から、時間の追跡に加え市民を大きく取り込んだ多元的なコホート研究を本格的に始めることになりました。このプロジェクトは現在と将来の日本社会へ向けて、新たな施策へのイノベーションをもたらすことを期待したいと思います。科学研究は客観的に調査分析することが重要であり、その客観性こそが科学の本質です。しかし、今回のような長期にわたる追跡研究では、将来の日本社会がどのような人間像を求めているのか、成長した大人に何を望もうとしているのか、研究者の仮説はもとより多くの市民に議論を巻き起こすように仕組むことも、研究者の社会的責任として必要になってくるかと思います。これからの社会を対象としたビッグプロジェクト科学研究は、研究者の単なる一方的な調査研究ではなく、市民と科学者との良い関係を構築することで、科学研究が市民生活に必須であり、具体的に役立つことをわかりやすく浸透してもらえればいいなと期待しています。

(2012年9月)

浅田 次郎 Jiro Asada

浅田 次郎

Profile
小説家

1995年『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、97年『鉄道員』で直木賞、2000年『壬生義士伝』で柴田錬三郎賞、『お腹召しませ』で06年中央公論文芸賞、07年司馬遼太郎賞を受賞。08年には『中原の虹』で吉川英治文学賞、10年には『終わらざる夏』で毎日出版文化賞を受賞。数々の文学賞に輝いている。2011年5月からは、日本ペンクラブの会長を務めている。

どうか思春期の子供らに、豊かな物語を食べさせてあげて下さい。

幼いころに生家が破産し、家族は離散しました。父母はそれぞれ新しい所帯を持ったので、私はどちらに身を寄せることもできず、自分で自分を養って成長しました。顧みて、まったく信じがたい話しですが。
私を育ててくれたのは「文学」でした。もし詩や小説に出会っていなければ、私は大人になる前にこの世から姿を消しているか、さもなくば獣のような人生を送っていたと思います。本を食べて生きてきたという実感があるので、今でも読書感想といえば文学的価値でも面白さでもなく、「うまい」か「まずい」かなのです。
父母の名を問われるととまどいます。私の父母は実在の人ではなく、「文学」だからです。父から教示された小説があり、母が読み聞かせてくれた物語があったなら、もう少しましな作品を書いていたろうと悔やまれます。
どうか思春期の子供らに、豊かな物語を食べさせてあげて下さい。

(2013年4月)

黛 まどか Madoka Mayuzumi

黛 まどか

Profile
俳人

2002年『京都の恋』で第2回山本健吉文学賞受賞。2010年4月より1年間、文化庁「文化交流使」としてパリを拠点に活動。現在「日本再 発見塾」呼びかけ人代表、京都橘大学客員教授などを務める。近著に、随筆『引き算の美学 もの言わぬ国の文化力』(毎日新聞社)、句集『てっぺんの星』(本阿弥書店)など。無料携帯メルマガを配信中。
http://madoka575.co.jp/

思春期に受けた傷は、人生のかけがえのない宝と成り得る…

生きるとは「変化」を受け入れることだと言った哲学者がいる。転職、転居、病、老化、そして死…人生は変化に満ちている。たとえ理不尽であったとしても、私たちはそれらを受け入れながら人生を送らなければならない。折り合いをつけるのに必要なのは、自らの体験を通して得た知恵や、他者からのアドバイスとそれらを深く理解する能力だ。
とりわけ思春期は「変化」に溢れている。病や老化の代わりに心身が急激に成長し、心が過敏になる。この年頃の多くの子どもが、混沌とした心の裡を的確な言葉で表現できないことに苦しむ。私自身もそうだったが女子が男言葉を使うのもその表れの一つだと思う。大人の助言に素直になれないのも思春期の特徴だ。私が通っていた中学ではいじめや喧嘩が日常茶飯事だった。私自身もいじめられる側になったことも、いじめる側になったこともある。不良グループから呼び出された折の恐怖はやがて消えたが、一人の女の子をクラス全員で無視した折の自己嫌悪は"ほろ苦さ"となり、いつまでも消えることはなかった。部活などをやっていなかった私には降り積もる鬱屈を吐き出す術がなかった。そんな時に寄り添ってくれたのは、亡き祖父母が残した言葉だった。生前日常の折々に言っていた何気ない言葉が、温もりと共に私を支えた。格言のような上等なものではないが、厳しい時代を生きる中で身を持って獲得した知恵から滲み出た言葉だったのだろう。
一方であの"ほろ苦さ"こそ心の襞を増やし、後に俳句をはじめとする多くの出会いに導いてくれたと思っている。思春期に受けた傷は、人生のかけがえのない宝と成り得る。しかしそれは傷を癒し昇華させるよう導く受け皿あってのことだ。それは人であっても、スポーツや文芸・芸術などであってもよい。変化する身体や心に言葉が追いつかない思春期を自浄せしむる受け皿に出会うことが大切だ。思春期に煩悶した一人として、それとなく促し良い出会いに導いてあげられる大人でありたいと思っている。そして社会全体で彼等を見守ってゆく仕組みが必要だと思う。

(2013年11月)

和田 浩子 Wada Hiroko

和田 浩子

Profile
Office WaDa 代表

マーケティング&
マネジメントコンサルタント

1977年P&Gサンホーム社(現P&Gファー・イースト社)入社。「ウィスパー」を日本市場でトップブランドに育てる。また、「パンテーン」「ヴィダルサスーン」の立ち上げ、「パンパース」の立て直しなどを手がける。2001年ダイソン日本支社の代表取締役社長、日本トイザらス代表取締役社長兼最高業務執行責任者(COD)を経て、2004年10月米経済誌「フォーチュン」によりアメリカを除く世界で一番パワフルなビジネスウーマン50傑に選ばれる。2005年 Office WaDa 設立。

将来の日本を背負う子供たちについて学び直す良い機会です。

子供の頃から他の人と違うことをしよう、9才の時学び始めた英語がいかせる仕事をしようと思いました。この2つが私の原動力でした。しかし、高校の時は、「他人と同じでなくてはいけない」という考え方に押しつぶされそうになり、「自分探し」で自分の周りをぐるぐる回った苦しい思いがあります。大学時代にイギリスの留学した時に、実に多様な人たちに出会いました。同じでなくてもいいのだ、違う意見はリスペクトされるという事がわかり、解放された感じがしたのを良く覚えています。大阪外国語大学卒業後、外資系企業のP&G でマーケティングのキャリアにつきました。まるで家庭のようにコア・バリュー(価値観)や行動規範を重んじる会社に出会い、その中で学ぶ機会、成長する機会を沢山提供してもらいました。その経験は、私に羽根をくれた様で、どこへでも飛んでいけて仕事ができる様な気がします。
マーケティングでは、消費者を理解する、消費者インサイト(洞察)をえる事は必要条件です。消費者を喜ばせ、満足してもらうためには、相手を良く理解しなければなりません。
今の社会は様々な事が以前とは比べられないスピードで変化が起きます。
大人はついていくのが大変ですが、反対に子供にとっては当たり前で、周りの大人が理解できない事で、子供には難しい時代かもしれません。過去と未来が断絶する様なイノベーションに囲まれたくらしです。
将来の日本を背負う子供たちについて学び直す良い機会です。現在の環境の変化が心身に与える影響は、未だ誰も理解できていない事ではないでしょうか。 それを深く理解する事は、子供たちの可能性を伸ばすためにはきっと役立つことでしょう。子供たちには様々なチャンスを生かして新しい日本人として活躍していって欲しいと思います。

(2014年5月)

井上 慶太 Keita Inoue

井上 慶太

Profile
将棋棋士 九段

兵庫県芦屋市出身。加古川市在住。若松政和七段門下。1983年2月で四段プロ棋士に。名人戦A級通算3期。2008年、史上37人目となる公式戦600勝を達成(将棋栄誉賞)。2011年3月王位戦予選において勝利し、勝数規定により九段に昇段。指導者として稲葉陽、船江恒平、菅井竜也の3名のプロ棋士を輩出。プロ入り直後から好成績をあげている。2011年4月より日本将棋連盟棋士会副会長を務める。

様々な個性があり可能性を秘めている子どもたち。社会や大人は、それを暖かく見守り、サポートできるような世の中であり続けるよう、努力していかなければならないと思う。

私は、小学2年生の時、父から将棋を教わった。父はアマチュアとしてはかなりの腕前だったが、いつも勝つのは私。父は「すごいな強いな」とほめてくれた。もちろん父が手加減して勝たせてくれていたのだが、小さかった私はそんなことは露ほども知らず、ただ勝つことがうれしくて、もっと父や母にほめてもらいたくて、どんどん将棋が好きになっていった。
父は私にとって最高の指導者だった。現在私も教室を開いて子供達の指導に当たっているが、父を見習って初心者の子には良い手を発見する喜びと勝つ喜びを知ってもらえるようにと心がけている。
将棋は世界に数あるボードゲームの中でも変化と激しさに富んだ奥深いものだと思う。将棋に取り組むことで、思考力、集中力、持続力が自然と養われる。それとともに日本古来の伝統文化でもあり、「礼に始まり礼に終わる」という礼儀作法が身に付くという効用もあると思う。私自身、子供のころはずいぶんやんちゃで落ち着きがなかったが、将棋をやるようになって徐々に変わっていったそうだ。
子供のころに好きなことに出会えたことと、何より自信をもたせてくれた指導者に出会えたことは私にとって幸運なことだったと思う。 様々な個性があり可能性を秘めている子どもたち。社会や大人は、それを暖かく見守り、サポートできるような世の中であり続けるよう、努力していかなければならないと思う。

(2014年11月)

髙城 寿雄 Toshio Takagi

髙城 寿雄

Profile
株式会社タカギ 代表取締役

21歳で職業訓練所修了、23歳で会社創業。知的財産法を学ぶために53歳で立教法学部入学、現在一橋大学国際企業戦略研究科博士課程在学中。「社会の発展に貢献する」という企業理念のもと、会社年商180億、社員1,000人の株式会社タカギの顔として、今も躍進を続けている。

私は中学2年まで四国の新居浜市で育ちました。自然を相手に毎日伸び伸びとガキ大将をしていました。中学2年の終わりに九州の門司に帰ってきました。驚いたことに同級生は皆異性に対して意識し、いやがらせ等していました。高校に入り私自身大変シャイになり男性に対しても言いたいことが言えなくなりました。相談する相手も見つからずどうしたらよいか分からず困りました。それで度胸を付ける為次々と事件を起こしました。学校の先生から精神異常のレッテルをはられ、二度の無期謹慎の後、高校を退学になりました。しかたなく転校し、どうにか高校を卒業しましたが、その後20歳になるまでやけくその生活でした。19歳の時少年鑑別所に入れられて1ケ月、教官いわく「お前は正常だ。まともにやれ」と言われて気分を変え現在があります。これが私の思春期です。
私は、常に一人で戦って来ました。何か事件を起こす時も一人でした。なぜ一人かと言えば、人数が多いと誰かが口を割るからです。私の趣味は発明でした。中三の時、門司市の発明展で特選と天賞と人賞と佳作を取りました。賞品を受け取る時、リュックサックを持って行って貰って来ました。毎日新聞に私の記事が載りました。私は小学校の時より、工作が好きでした。工作を始めると、もう夢中でした。中学の時、発明展がある事を知り、夢中で夜も寝ないで作品を作って、出品しました。しかし勉強はほとんどしませんでした。 高校の成績も入学時230人中60番でしたが、退学の時は、225番でした。授業が、受験対策中心で、まったく面白くなかったので、一度も宿題をして行きませんでした。とにかく勉強が嫌いで、暇さえ有れば、発明品の試作をするか、バイクを分解したり組立てたり、乗り回していました。私の作った会社は大会社の下請けでしたが、会社を作って15年目に、オイルショックで倒産しました。それで下請けは、不景気に成ると仕事がなくなり、倒産すると考え、メーカーになる決心をしました。新製品を作って、もしヒットしてもすぐ物まねのコピー商品が出るだろうと考え、特許を取る事にしました。幸い、発明が趣味でしたので、うまく行き、今私の発明の特許は約180件有ります。一番売れている浄水器の特許製品は、一年間に140億円の売り上げがあります。人は何か長所があります。それを見つけて伸ばすと、人生に自信と希望が生まれます。皆さん、ガンバッて下さい。

(2015年6月)

長谷川 寿一 Toshikazu Hasegawa

長谷川 寿一

Profile
東京大学教養学部教授

川崎市出身。東京大学文学部心理学科卒、同大学院博士課程修了。文学博士。前東京大学理事・副学長(2013〜15年)。専門は、動物行動学、進化心理学。イヌの研究もする愛犬家。kikulog プードルで検索して下さい。

東京の思春期の皆さん、ときどきはアフリカの森に住む遠い遠い親戚のことも考えてみて下さい。

今から30数年前、アフリカで野生のチンパンジーを追いかけ調査する日々を送っていた。チンパンジーにはヒトのような明確な思春期はないが、約5歳で乳離れしてから約15歳で一人前になるまで、若者たちは彼らなりに試練の時代を過ごしていた。チンパンジーはオトナオス同士の絆が大変に強く、若いオスたちはそのネットワークに入る準備をする。派手な示威行動ができないと一人前とみなされないので、若者オスはわざとオトナメスの嫌がることをしたり、求愛行動のまね事をしたりしていた。他方、若いメスは母性行動の準備だろう、子守りが大好きだった。ヒトとチンパンジーの最大の違いの一つは、積極的な教育の有無だ。チンパンジーでは誰も何も教えてくれない。自ら学び取るだけだ。人間はとくに思春期に教育を通じて多くを学び、自分を律して成長する。遺伝的にはごく近いこの2種がどうしてこれほど違う道筋に進化したのだろう。東京ティーンコホート研究では、人類進化の研究にもつながる貴重なデータが蓄積されている。東京の思春期の皆さん、ときどきはアフリカの森に住む遠い遠い親戚のことも考えてみて下さい。

(2015年12月)

小宮山 泰央 Yasuo Komiyama

小宮山 泰央

Profile
トヨタ自動車株式会社
東富士研究所勤務 1986年入社

WRC(世界ラリー選手権)、GT(国内ツーリングカー選手権)、CART(アメリカ チャンプカー選手権)、スーパーフォーミュラ(フォーミュラニッポン)、F1等のトヨタが参戦する国内・海外の主要レースのエンジン組付けと開発試験を担当。2014年から2016年までトヨタF1プロジェクトの拠点ドイツTMGに出向してF1エンジンの組付けと車両のテストチームに帯同。現在はルマン24時間レースを始めとするWEC(世界耐久選手権)用エンジン組付けチームのリーダー。自身もドイツで行われるニュルブルグリング24時間レースに参戦に向けて活動を展開中。

自分が10代に受けた影響は大きく、それを研究されている皆さんの成果が、未来を担う子供たちの将来に役立つことを期待しています。

私は現在、トヨタ自動車(株)東富士研究所に勤務し、レース(モータースポーツ)用エンジンの組付けを担当しています。小学生の頃から車が好きで、雑誌を見たり、中学時代には自宅から15キロぐらいのところにある富士スピードウェイまで、毎週末のように自転車で通ったりしていました。将来は何になりたい…というような大きな希望はありませんでしたが、中学以降の進路を決める時に、トヨタや日産という大きな自動車会社の中には企業内訓練校があり、勉強しながら仕事を学び、給料を得、高校卒業の資格も得られるということを知って、トヨタ工業高等学園に入学しました。親元を離れての全寮生活と厳しい先輩や指導員に囲まれて自立心も向上しました。在学時代にこっそりレーシングカートを買ってレースに出たり、一人で鈴鹿サーキットへ行ったりしていたことが通じてか、卒業後の配属はレース用エンジンの開発部署に配属されました。また、仕事以外にも趣味として自分の車でサーキットを走ったりしています。
そのような行動から、自他ともに認めるレース好きと言われますが、一見華やかなレースの世界は、決してミスの許されない厳しい技術開発競争の場でもあり、苦労の連続です。 それをやり遂げた時の達成感は何事にも代えがたいものですが、今こうしてそういう場所に居られるのは、自分は一貫して車が好きで、それを通じた仕事で何かの役に立ちたいという思いが周囲にも伝わっているからと感謝しています。そういう意味においても、自分が10代に受けた影響は大きく、それを研究されている皆さんの成果が、未来を担う子供たちの将来に役立つことを期待しています。

(2016年6月)

熊谷 晋一郎 Shinichirou Kumagai

熊谷 晋一郎

Profile
小児科医・東京大学先端科学研究センター准教授

1977年山口県生まれ。新生児仮死の後遺症で、脳性まひに。以後車いすでの生活となる。東京大学医学部医学科卒業後、千葉西病院小児科、埼玉医科大学小児心臓科での勤務、東京大学大学院医学系研究科博士課程での研究生活を経て、現職。専門は小児科学、当事者研究。主な著作に、『リハビリの夜』(単著、医学書院、2009)、『発達障害当事者研究』(共著、医学書院、2008)、『つながりの作法』(共著、NHK出版、2010)、『痛みの哲学』(共著、青土社、2013)など。

みんなでつくる思春期の航路図

人生を一冊の物語にたとえるとしたら、思い返すと思春期は、想定外の急展開が次々に起きた一章でした。体や心の変化を持て余して、なんだか落ち着きませんし、背も視点も高くなって物事の仕組みがわかるようになるにつれ、様々な矛盾や、理不尽さに気がつくこともあります。人と自分の違いにコンプレックスを感じ、「どうせ誰も自分の気持ちを分かってくれない」と萎縮してしまうかもしれません。
かくいう私も、思春期には歩むべき道を見失いかけていました。私は、生まれつき体が不自由で、車イスで生活をしています。周りの健常な同級生たちが、スポーツや恋愛にのめり込んでいる姿があまりに眩しくて、おいてけぼりにされる惨めさと焦りを、ヒリヒリと感じていました。小さい頃には気づかなかった、障害者に対する社会の理不尽さに怒りを感じたりもしました。
でも、想像してみてください。数えきれないほどたくさんの先人たちが、この思春期といういばらの道を通ってきたということを。確かに、まったく同じ物語を生きた人は二人といません。しかし、たくさんの先行く仲間が歩んできた、星の数ほどある思春期の物語の中には、あなたの物語とも重なる共通項があるのです。その先人の足跡は、思春期の道なき道に迷わないよう、足元を照らしてくれます。
私は、同じ障害を持つ先輩から思春期の経験を聞いたときに、「私一人ではなかったんだ」と安堵し、体の力が抜けていくのを感じました。そして、未来に続く道(獣道?)が見えた気がしました。道を踏み外したかに思えた自分の航路にも、確かにそこを通ってきた先人がいたのだという発見は希望でした。確かに、先輩と私の物語には、たくさんの違いがありました。でもそれ以上に、多くの共通項があったのです。
この思春期コホート研究は、多様な思春期の物語を、人類の共有財産として集め、その共通項をみつける試みといえるでしょう。あなたの物語が、「どうせ誰もわかってくれない」と苦しんでいる誰かを、孤独から解放してくれるとしたら、なんと素晴らしいことでしょうか。あなたのかけがえのない物語を、思春期の航路図へと編み上げる壮大なプロジェクトに、ぜひご協力をお願いします。

(2017年1月)

竹澤 健介 Kensuke Takezawa

竹津 健介

Profile
2008年北京オリンピック5000m・10000m日本代表

1986年10月11日生まれ。兵庫県姫路市出身。早稲田大学スポーツ科学部卒業。中学時代からトラックの中・長距離で活躍し、早稲田大学進学後、箱根駅伝に1年時から出場、2008年大会では3区で区間1位となり、区間賞を獲得。箱根駅伝往路優勝に貢献した。日本代表として2007年に世界陸上大阪大会で10000m、2008年北京オリンピックには5000m、10000mに出場した。2013年エスビー食品を経て7月に住友電工に入社。
チームを2014年元日のニューイヤー駅伝初出場に導く 以降、チームのエースとしてニューイヤー駅伝3年連続出場に貢献
【主な競技成績】
2007年 箱根駅伝 2区 区間賞
2008年 北京オリンピック5000m・10000m日本代表(早大4年時)
【自己記録】
5000m 13分19秒00(2007年)
10000m 27分45秒59(2007年)

子どもの可能性は無限大。その可能性を信じ、広げてあげることが大人の役割だと考えています。

私は、兵庫県姫路市に生まれ、幼少期を過ごしました。幼い頃に、喘息を患っていた事から、小学生の頃は水泳を習っていました。強化コースに在籍していたので、週に5日みっちり1時間半の練習があり、家に帰るともうくたくたに疲れてご飯を食べながらうとうとして眠ってしまうこともよくありました。夜9時には床に就いていたので、9時間以上は眠っていたと思います。中学から陸上競技を始めましたが、幼い頃に身についた長時間睡眠や練習後の昼寝の習慣は大人になるまで変わりませんでした。大学に入学してからは、他の学生よりも自分の睡眠時間が長く、昼寝も頻繁にする事に疑問を抱いたことがきっかけで、睡眠を研究しているゼミを選びました。学んでいく中で技能学習に昼寝が有効である事や、長時間睡眠が競技力の向上につながることが分かり、「そういうことだったのか、」と腑に落ちた事を覚えています。
私は大学在学中にオリンピックに出場することが出来ましたが、はじめから目指していたわけではありません。そのときそのときに合った目前の目標を達成していくことで少しずつオリンピック出場という結果に近づいていったように思います。
思春期の私の周りにはオリンピック選手はいませんでしたし、ましてや自分がオリンピック選手になるなど、夢にも思いませんでした。私はいたって普通の子どもだったように思います。
まだ将来のことと意識していない幼い頃から、大人が適切な環境を整えてくれたこと、そして何よりも思春期に私の可能性を信じ、接してくれる大人が周りにいたことが、私をオリンピックまで導いてくれたと考えています。
子どもは大人が考える以上の可能性を秘めています。
夢や目標を持つ子どもの可能性を信じ、広げてあげることが大人の役割であると考えます。本研究が子どもの可能性を広げる一助になる事を心から期待しています。

(2017年6月)

木村 太郎 Taro Kimura

木村 太郎

Profile
ジャーナリスト

昭和13年(1938年)2月12日合衆国カリフォルニア州バークレイ市で生まれる。
昭和16年日米関係悪化とともに帰国する。昭和39年、慶応義塾大学法学部卒業。同4月NHKに入社。記者として神戸放送局、報道局社会部に勤務する。昭和49年~51年ベイルート特派員、内戦に巻き込まれ戦争の取材に終始したあと、51年~53年ジュネーブ特派員、55年からワシントン特派員としてレーガン政権の誕生を目撃。57年2月に帰国し、「ニュースセンター9時」の4代目キャスターに就任。以後63年4月まで6年間キャスター席に座る。 昭和61年に「第12回放送文化基金賞」、63年に国際報道を通じ、国際理解に貢献したジャーナリストに与えられる「1987年ボーン上田記念国際記者賞」を受賞する。「ニュースセンター9時」の終了とともに63年4月NHKを退社し、同5月木村太郎事務所を開設。 フリーランス記者として新しいスタートを切った。
平成2年(1990年)4月より平成6年(1994年)3月までFNN「ニュースCOM」のキャスター、同4月から平成12年(2000年)3月までFNN「ニュースJAPAN」、同4月より平成25年(2013年)3月までFNN「スーパーニュース」でニュース・アナリストを務める。FNN「Mr.サンデー」に隔週出演中。東京新聞にコラム「太郎の国際通信」を毎週連載中。

私を助けてくれたのは、実力試験という「試練の場」

私の思春期には他人に誇れるような話はありません。
無難に過ごせばそのまま大学へ進学できる一貫校に入っていたのに、無駄な抵抗をして学校をサボるは悪さはするはで高校一年の時に退学になってしまいました。すると、当時名古屋に居た父親は、私を呼び寄せてこともあろうに地元の最も厳しい進学校に転入させたのです。
その高校は定期的に大学入試全科目の実力試験を行い、その成績を順位をつけて公表していたのです。転入直後に行われた試験で、当然のことながら私は一学年四〇〇人の三九八番でした。偉かったのは母親で「まだ下に二人いるじゃないの」と笑って言ってくれたのです。
情けなかったのですが、客観的な評価では誰の責任にもできません。そこで少し努力してみると下に二〇人ぐらいを従えることができるようになりました。そうなると順位が上がるのが面白くなるもので、好きになれそうな科目から参考書に目を通すようになると成績の順位が「どんどん」とではなくとも「そこそこ」に上がるようになり、卒業する頃は一〇〇番を切るぐらいまでになりました。退学させられた一貫校の大学を受験して、なんとか滑り込むことができたのです。
こうなると怖いものはなくなります。大学時代は二度海外へ「遊学」して卒業するのが三年遅れてしまいましたが、それで得たものは後年ジャーナリストとしてやってゆく上で大きな宝物になりました。
「私を採らなければ損をしますよ」と入社試験の面接で胸を張ったのは、ちょっとやりすぎだったかもしれませんが。
いずれにせよ、私を助けてくれたのは実力試験という「試練の場」だったと思います。私の場合、思春期の問題は逃げずに立ち向かうことで克服できたようです。

(2017年11月)

田中 啓二 Keiji Tanaka

>田中 啓二

Profile
(公財)東京都医学総合研究所 理事長

徳島大学大学院博士課程中退後(1976年)、徳島大学酵素研究所助手、助教授を経て、1996年、東京都医学総合研究所(旧臨床研)分子腫瘍学研究部門部長に就任。この間、1981年から1983年まで米国ハーバード大学医学部へ留学。2002年からは同研究所の副所長、所長代行、所長を経て、2018年から理事長。朝日賞・日本学士院賞・慶應医学賞などを受賞。文化功労者。

読書のすすめ!

高名な画家や音楽家などの自伝を読むと、小さい頃から神童であったかのような煌きが随所にみられる。また一流の優れたスポーツ選手などは小さい時から飛び抜けた資質をもっていることが多いようである。彼らには天賦の才能があって、自然に豊かな未来が約束されているかのように思われがちである。しかし(私見であるが)これは錯覚であり、多分、事実とは異なるように思われる。実は才能に溢れた人間ほど、生涯をかけて努力を惜しまないものである。

少年期、私は落ちこぼれという訳ではなかったが、褒められた経験も乏しく、目立たない平凡な子供であった。貧しくて大好きな本も買って貰えず、月に数回やってくる移動図書館の本を片っ端から借りて貪り読んだ。読書以外には、可愛がっていた柴犬と野原を駆け巡ることが唯一の楽しみであった。このように一言でいえば、冴えない平凡な青春であった。中学、高校、そして大学に進んだが、読書だけは、日々欠かさなかった。経済的な事情から理系に進み、生命科学の研究者として約半世紀、努力することを信条として研究に邁進してきた結果、科学史の片隅に小さな軌跡を残せたかもしれないという程度の実績である。さて読書(様々なジャンルの乱読)が科学の仕事に役に立ったか否かは判然としないが、読書は私の人生を豊かにしてくれたことは確かなようである。実際、読書は知識の宝庫である。少年期の知の創出には、興味の赴くままに大好きなことに熱中することが大切であり、その一つに読書し続けることを強く勧めたい。

発達期の脳は柔らかく無限の包容力があるので、知識の詰め込み過ぎが害になることは全然ない。と同時に感受性が高く無垢な少年期の脳は、様々な刺激に上手く対応できず、時には混乱し傷つき健全性を失い易いという繊細な性質も併せ持っている。実際、豊穣な愛情が絶対的に必要な少年期に、そのような庇護が受けられずに深い翳りを背負って人生に挫折してしまうことも少なくないようである。「東京ティーンコホート研究」は、長い時間をかけて少年期の心の動きや振る舞いを調査する研究であり、様々なストレスに溢れた青春の折々を緻密に観察・記録・分析する学問であると側聞している。このような膨大な時間を要する地道な研究は、成長期の子供たちが抱える多くの悩みの解決にかけがえのないヒントと対処法を与えてくれるに違いない。殺伐とした文明社会の少年たちの心の解放に鋭く迫る「ティーンコホート研究」に期待したい。

(2018年12月)

宮澤 エマ Ema Miyazawa

宮澤 エマ

Profile
女優

1988年生まれ。ラジオのパーソナリティを機に、テレビのバラエティや報道番組、ドラマなどで活躍。舞台『メリリー・ウィー・ロール・アロング~それでも僕らは前へ進む~』で舞台デビュー。その後、『シスター・アクト~天使にラブ・ソングを~』、『Endless SHOCK』、『ラ・マンチャの男』、『ドッグファイト』、『紳士のための愛と殺人の手引き』、『ジキル&ハイド』などミュージカルへの出演を重ねている。2018年12月には三谷幸喜新作ミュージカル「日本の歴史」に出演。

舞台のもつ熱量が、心を揺さぶる

私はアメリカ人の父と日本人の母の間に生まれ、幼い頃から日本とアメリカを行き来していました。移り住むたびに言葉を忘れていたので、親の意向もあり日本のインターナショナルスクールに通うことになった時は、英語を話すことができず強い不安を覚えました。その頃がちょうど一つ目の思春期で、いろんなことが変わりだす時期でした。みんなが将来のことを考え自分で意思決定をし始める頃に、『親の方針で自分の未来が決まっていく』というのが許せなかったのです。抱えている問題は自分で解決できるようなことではないと理解していましたが、それでも相談相手や共感してくれる人が欲しかった。自分の内に閉じこもるタイプだったので、あまり理解してもらえていないという思いを漠然と抱えながら過ごしていました。

そして、新しい学校で演劇部やバンド活動に取り組み、自分の気持ちを表現する場をみつけたことが私にとっての転機となりました。自分の言葉で表現できない場合は、歌や演劇を通じ、他の人の言葉を借りて表現することも出来ました。当時、思春期ならではの葛藤として『自由じゃないこと』に対するもどかしさを抱えていましたが、歌は、表現の中に自由がありました。歌っている時は、自分にしかできないことがあるということを実感できました。思春期の、心の中の『ざわついているもの』は特別なものだと思います。その時が過ぎてしまうと無くなってしまうものだけれど、ものすごいエネルギー量もある。ブログに書くとか絵を描くとか、どのような形であってもいい。「のびのびと自分の意見を言ったり、間違えを恐れずに何かをすることが、もっとあっていい」と感じます。

そういったやりたいことが何なのかわからないことは、よくあることだと思います。悩んでいる人は、お芝居を観てもらうだけでも何かを与えることができるかもしれません。今の時代、エンターテイメントがあふれている一方で、お芝居やミュージカルのように2時間を人と一緒に共有する経験は少ないと思います。お金を払って、そこに足を運んで、時間を共有する経験は、とても贅沢でもあり、自分を変える時間でもあります。毎日がつらくて、突破口がどこにあるのか分からない人は、ぜひ劇場まで舞台を観に来てほしい。その時は何もひっかからなくても、ふとした瞬間に思い出すことがあると思いますし、少しでも何かを感じてくれたら嬉しいです。

(2018年12月)

押切 もえ Moe Oshikiri

押切 もえ

Profile
モデル

1979年千葉県生まれ。小学館「CanCam」では2001年8月号~2007年4月号まで、「AneCan」では2007年4月号~2016年12月号まで専属モデルを務める。趣味は料理、読書。特技は絵画。モデル業の他、育児雑誌への連載やプロヂュース業など多彩に活躍。著書「永遠とは違う一日」を2018年に新潮社から出版。

思春期の頃の私は、とても恥ずかしがり屋で人見知り、自分に自信がなくて傷つきやすい子だったと記憶しています。家族や親しい友達と一緒の時は冗談を言い合うのを楽しみ、自分の意見をはっきり伝えることもできましたが、関係が浅い人の前ではそれが怖くて、一気に口数が少なくなってしまう。「もしも誤解されて嫌われてしまったらどうしよう」と、実際に起きてもいないことを考えて胸を痛めることもありました。昔から想像力が豊かだったのですが、悪い方へ向かってしまうことがあったんですね。

また、素直になれないことも多かったです。学校でモヤモヤしたことがあった時、家に帰ってもそれを引きずってしまって「何かあったの?」と聞いてくれる母にうまく伝えられず、ついきつく否定してしまったことが。大好きな母にそんな態度を取った自分がいやで仕方なくて、さらに落ち込みましたね。

大人になった今では、「まあまあ、一度落ち着いて。それから視野を広げて考えてみたら?」とその時の私にアドバイスをしたいぐらいですが、幼かった私はどうしたら視野を広げられるのかさえわかりませんでした。

ただ大人になって振り返ると、そんなひとつひとつの失敗や葛藤、反省の繰り返しによってだんだんと自分の心が強くなったことはたしかです。素直になれない時があったら、その現実を受け入れて、「今度からは意識して自分から心を開くようにしてみよう」と行動するように。また、「誤解されるのがいやだったら、どうすれば理解してもらえるのか」と考えて、自分に向いていた意識の矢印を相手の方へ向けるようにしました。はじめから満足がいくほどはできなくても、「次は」「次なら」と、状況に合わせて考えるようになりました。そのおかげもあって、余計な恐怖心や不安も少しずつ薄らいでいったように思います。恥ずかしがり屋な面は今もまだ少しありますが(笑)、モデルや執筆業、人前でお話をするお仕事の時、自分に自信を持つべきところではきちんと持てるようになりました。

壁に突き当たった時、読書に没頭したり、絵を描いたりしたことで解決につながったことも多々あります。自分の悩みに直接答えを出してくれるような本、または自分の生活する世界なんてどれだけちっぽけなものかと思わせるようなファンタジー作品、なんにも考えずにただひたすら笑える娯楽作品などに、これまで数え切れないほど救われてきました。今もし悩みを抱えていて、じっくりそれと向き合いたいという方は、自分に合う本を探してみてもいいかもしれません。絵を描くことも想像力を使って作業に集中できて達成感を得られるので、一つの事柄ばかり考えてしまうような時にはおすすめです。どちらも私が小さい頃から好きなことですが、趣味や好きなことに愛情を注ぐ時間は、人生を豊かにしてくれるように思います。それが仕事につながることもあるし、同じ思いを共有できる友人との出会いは大きな喜びをもたらしてくれますね。

思春期は初めての経験がどんどん増えていって、急に大人と同じような考え方やふるまいを求められる時期でもあると思います。けれど経験がない分、悩んだり、失敗したりすることもある。自分の中でいろんな視点を持ってじっくり考えることは必要だけれど、どうしても解決できないことがあったら、周りの人を頼ってほしいです。きっと話してもうまくわかってもらえない、なんて思わないで。そう思い込んで、たくさんの遠回りをしてしまった私だから、それを伝えたいです。

これからもものすごい速さで世界が変化し続ける中、柔軟で多角的な考え方に加えて、人を思う気持ちはより大切になってくると思います。私の周りを見回してみると、素直で、思いやりと優しさ、感謝できる気持ちを大切にする人は、どんな分野の方であってもとても輝いています。あなたの心にもある、そんな素敵なところを、いつまでも大事に育てていってくださいね。

(2019年5月)