応援メッセージ
- 毛利 衛(日本科学未来館 館長)
- 浅田 次郎(小説家)
- 黛 まどか(俳人)
- 和田 浩子(Office Wada代表)
- 井上 慶太(将棋棋士 九段)
- 髙城 寿雄(株式会社タカギ 代表取締役)
- 長谷川 寿一(東京大学 教養学部教授)
- 小宮山 泰央(トヨタ自動車株式会社 東富士研究所勤務)
- 熊谷 晋一郎(小児科医・東京大学 先端科学研究センター准教授)
- 竹澤 健介(2008年 北京オリンピック 5000m・10000m日本代表)
- 木村 太郎(ジャーナリスト)
- 田中 啓二((公財)東京都医学総合研究所 理事長)
- 宮澤 エマ(女優)
- 押切 もえ(モデル)
- 世田谷区立希望丘青少年交流センター(アップス)
- 菊水 健史(麻布大学獣医学部教授)
- 長谷川 眞理子(前総合研究大学院大学学長)
- 田熊 美保(OECD教育スキル局シニア政策アナリスト)
- 笠井 清登(東京大学大学院医学系研究科精神医学・教授)
- 石井 綾華(特定非営利活動法人Light Ring. 代表理事)
- 鶴澤 友之助(人形浄瑠璃文楽座 三味線奏者)
毛利 衛 Mamoru Mohri
Profile
日本科学未来館 館長
1985年北大助教授から日本人初の宇宙飛行士の一人に選抜され、1992年スペースシャトルにてアジア初の科学者として43の日米協力宇宙実験を成功させた。その後潜水艇しんかい6500にて深海実験や南極からの極地授業で世界中の若者に科学者としての夢を与えている。
このプロジェクトは現在と将来の日本社会へ向けて、新たな施策へのイノベーションをもたらすことを期待したいと思います。
10歳の時、私は夕暮れ時夜空にツーと走る光に胸をおどらせました。世界で初めての人工衛星スプートニクです。同じ年、砕氷船宗谷が南極観測に出発し、越冬隊が送ってきたオーロラの美しさに魅せられました。その後、13歳では人類で初めて宇宙を飛行したガガーリンにあこがれ、15歳には皆既日食を見て、私は自然科学者になる道をめざしました。十代は自分の周囲に敏感であり社会との関係でその後の人生が影響されます。体の変化とともに自我の確立へ向けて心が最も不安定な時期であることは大人の誰もが自分の思春期の経験から記憶があるはずです。現在、社会全体の急激な変化により、いじめや不登校、自殺をめぐり学校教育だけでは閉じてはいけない重要な社会問題として、その対策が急務になっています。この社会的な過渡期に、学術においても従来の個別的な調査研究から、時間の追跡に加え市民を大きく取り込んだ多元的なコホート研究を本格的に始めることになりました。このプロジェクトは現在と将来の日本社会へ向けて、新たな施策へのイノベーションをもたらすことを期待したいと思います。科学研究は客観的に調査分析することが重要であり、その客観性こそが科学の本質です。しかし、今回のような長期にわたる追跡研究では、将来の日本社会がどのような人間像を求めているのか、成長した大人に何を望もうとしているのか、研究者の仮説はもとより多くの市民に議論を巻き起こすように仕組むことも、研究者の社会的責任として必要になってくるかと思います。これからの社会を対象としたビッグプロジェクト科学研究は、研究者の単なる一方的な調査研究ではなく、市民と科学者との良い関係を構築することで、科学研究が市民生活に必須であり、具体的に役立つことをわかりやすく浸透してもらえればいいなと期待しています。
(2012年9月)
浅田 次郎 Jiro Asada
Profile
小説家
1995年『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、97年『鉄道員』で直木賞、2000年『壬生義士伝』で柴田錬三郎賞、『お腹召しませ』で06年中央公論文芸賞、07年司馬遼太郎賞を受賞。08年には『中原の虹』で吉川英治文学賞、10年には『終わらざる夏』で毎日出版文化賞を受賞。数々の文学賞に輝いている。2011年5月からは、日本ペンクラブの会長を務めている。
どうか思春期の子供らに、豊かな物語を食べさせてあげて下さい。
幼いころに生家が破産し、家族は離散しました。父母はそれぞれ新しい所帯を持ったので、私はどちらに身を寄せることもできず、自分で自分を養って成長しました。顧みて、まったく信じがたい話しですが。
私を育ててくれたのは「文学」でした。もし詩や小説に出会っていなければ、私は大人になる前にこの世から姿を消しているか、さもなくば獣のような人生を送っていたと思います。本を食べて生きてきたという実感があるので、今でも読書感想といえば文学的価値でも面白さでもなく、「うまい」か「まずい」かなのです。
父母の名を問われるととまどいます。私の父母は実在の人ではなく、「文学」だからです。父から教示された小説があり、母が読み聞かせてくれた物語があったなら、もう少しましな作品を書いていたろうと悔やまれます。
どうか思春期の子供らに、豊かな物語を食べさせてあげて下さい。
(2013年4月)
黛 まどか Madoka Mayuzumi
Profile
俳人
2002年『京都の恋』で第2回山本健吉文学賞受賞。2010年4月より1年間、文化庁「文化交流使」としてパリを拠点に活動。現在「日本再 発見塾」呼びかけ人代表、京都橘大学客員教授などを務める。近著に、随筆『引き算の美学 もの言わぬ国の文化力』(毎日新聞社)、句集『てっぺんの星』(本阿弥書店)など。無料携帯メルマガを配信中。
http://madoka575.co.jp/
思春期に受けた傷は、人生のかけがえのない宝と成り得る…
生きるとは「変化」を受け入れることだと言った哲学者がいる。転職、転居、病、老化、そして死…人生は変化に満ちている。たとえ理不尽であったとしても、私たちはそれらを受け入れながら人生を送らなければならない。折り合いをつけるのに必要なのは、自らの体験を通して得た知恵や、他者からのアドバイスとそれらを深く理解する能力だ。
とりわけ思春期は「変化」に溢れている。病や老化の代わりに心身が急激に成長し、心が過敏になる。この年頃の多くの子どもが、混沌とした心の裡を的確な言葉で表現できないことに苦しむ。私自身もそうだったが女子が男言葉を使うのもその表れの一つだと思う。大人の助言に素直になれないのも思春期の特徴だ。私が通っていた中学ではいじめや喧嘩が日常茶飯事だった。私自身もいじめられる側になったことも、いじめる側になったこともある。不良グループから呼び出された折の恐怖はやがて消えたが、一人の女の子をクラス全員で無視した折の自己嫌悪は"ほろ苦さ"となり、いつまでも消えることはなかった。部活などをやっていなかった私には降り積もる鬱屈を吐き出す術がなかった。そんな時に寄り添ってくれたのは、亡き祖父母が残した言葉だった。生前日常の折々に言っていた何気ない言葉が、温もりと共に私を支えた。格言のような上等なものではないが、厳しい時代を生きる中で身を持って獲得した知恵から滲み出た言葉だったのだろう。
一方であの"ほろ苦さ"こそ心の襞を増やし、後に俳句をはじめとする多くの出会いに導いてくれたと思っている。思春期に受けた傷は、人生のかけがえのない宝と成り得る。しかしそれは傷を癒し昇華させるよう導く受け皿あってのことだ。それは人であっても、スポーツや文芸・芸術などであってもよい。変化する身体や心に言葉が追いつかない思春期を自浄せしむる受け皿に出会うことが大切だ。思春期に煩悶した一人として、それとなく促し良い出会いに導いてあげられる大人でありたいと思っている。そして社会全体で彼等を見守ってゆく仕組みが必要だと思う。
(2013年11月)
和田 浩子 Wada Hiroko
Profile
Office WaDa 代表
マーケティング&
マネジメントコンサルタント
1977年P&Gサンホーム社(現P&Gファー・イースト社)入社。「ウィスパー」を日本市場でトップブランドに育てる。また、「パンテーン」「ヴィダルサスーン」の立ち上げ、「パンパース」の立て直しなどを手がける。2001年ダイソン日本支社の代表取締役社長、日本トイザらス代表取締役社長兼最高業務執行責任者(COD)を経て、2004年10月米経済誌「フォーチュン」によりアメリカを除く世界で一番パワフルなビジネスウーマン50傑に選ばれる。2005年 Office WaDa 設立。
将来の日本を背負う子供たちについて学び直す良い機会です。
子供の頃から他の人と違うことをしよう、9才の時学び始めた英語がいかせる仕事をしようと思いました。この2つが私の原動力でした。しかし、高校の時は、「他人と同じでなくてはいけない」という考え方に押しつぶされそうになり、「自分探し」で自分の周りをぐるぐる回った苦しい思いがあります。大学時代にイギリスの留学した時に、実に多様な人たちに出会いました。同じでなくてもいいのだ、違う意見はリスペクトされるという事がわかり、解放された感じがしたのを良く覚えています。大阪外国語大学卒業後、外資系企業のP&G でマーケティングのキャリアにつきました。まるで家庭のようにコア・バリュー(価値観)や行動規範を重んじる会社に出会い、その中で学ぶ機会、成長する機会を沢山提供してもらいました。その経験は、私に羽根をくれた様で、どこへでも飛んでいけて仕事ができる様な気がします。
マーケティングでは、消費者を理解する、消費者インサイト(洞察)をえる事は必要条件です。消費者を喜ばせ、満足してもらうためには、相手を良く理解しなければなりません。
今の社会は様々な事が以前とは比べられないスピードで変化が起きます。
大人はついていくのが大変ですが、反対に子供にとっては当たり前で、周りの大人が理解できない事で、子供には難しい時代かもしれません。過去と未来が断絶する様なイノベーションに囲まれたくらしです。
将来の日本を背負う子供たちについて学び直す良い機会です。現在の環境の変化が心身に与える影響は、未だ誰も理解できていない事ではないでしょうか。 それを深く理解する事は、子供たちの可能性を伸ばすためにはきっと役立つことでしょう。子供たちには様々なチャンスを生かして新しい日本人として活躍していって欲しいと思います。
(2014年5月)
井上 慶太 Keita Inoue
Profile
将棋棋士 九段
兵庫県芦屋市出身。加古川市在住。若松政和七段門下。1983年2月で四段プロ棋士に。名人戦A級通算3期。2008年、史上37人目となる公式戦600勝を達成(将棋栄誉賞)。2011年3月王位戦予選において勝利し、勝数規定により九段に昇段。指導者として稲葉陽、船江恒平、菅井竜也の3名のプロ棋士を輩出。プロ入り直後から好成績をあげている。2011年4月より日本将棋連盟棋士会副会長を務める。
様々な個性があり可能性を秘めている子どもたち。社会や大人は、それを暖かく見守り、サポートできるような世の中であり続けるよう、努力していかなければならないと思う。
私は、小学2年生の時、父から将棋を教わった。父はアマチュアとしてはかなりの腕前だったが、いつも勝つのは私。父は「すごいな強いな」とほめてくれた。もちろん父が手加減して勝たせてくれていたのだが、小さかった私はそんなことは露ほども知らず、ただ勝つことがうれしくて、もっと父や母にほめてもらいたくて、どんどん将棋が好きになっていった。
父は私にとって最高の指導者だった。現在私も教室を開いて子供達の指導に当たっているが、父を見習って初心者の子には良い手を発見する喜びと勝つ喜びを知ってもらえるようにと心がけている。
将棋は世界に数あるボードゲームの中でも変化と激しさに富んだ奥深いものだと思う。将棋に取り組むことで、思考力、集中力、持続力が自然と養われる。それとともに日本古来の伝統文化でもあり、「礼に始まり礼に終わる」という礼儀作法が身に付くという効用もあると思う。私自身、子供のころはずいぶんやんちゃで落ち着きがなかったが、将棋をやるようになって徐々に変わっていったそうだ。
子供のころに好きなことに出会えたことと、何より自信をもたせてくれた指導者に出会えたことは私にとって幸運なことだったと思う。 様々な個性があり可能性を秘めている子どもたち。社会や大人は、それを暖かく見守り、サポートできるような世の中であり続けるよう、努力していかなければならないと思う。
(2014年11月)
髙城 寿雄 Toshio Takagi
Profile
株式会社タカギ 代表取締役
21歳で職業訓練所修了、23歳で会社創業。知的財産法を学ぶために53歳で立教法学部入学、現在一橋大学国際企業戦略研究科博士課程在学中。「社会の発展に貢献する」という企業理念のもと、会社年商180億、社員1,000人の株式会社タカギの顔として、今も躍進を続けている。
私は中学2年まで四国の新居浜市で育ちました。自然を相手に毎日伸び伸びとガキ大将をしていました。中学2年の終わりに九州の門司に帰ってきました。驚いたことに同級生は皆異性に対して意識し、いやがらせ等していました。高校に入り私自身大変シャイになり男性に対しても言いたいことが言えなくなりました。相談する相手も見つからずどうしたらよいか分からず困りました。それで度胸を付ける為次々と事件を起こしました。学校の先生から精神異常のレッテルをはられ、二度の無期謹慎の後、高校を退学になりました。しかたなく転校し、どうにか高校を卒業しましたが、その後20歳になるまでやけくその生活でした。19歳の時少年鑑別所に入れられて1ケ月、教官いわく「お前は正常だ。まともにやれ」と言われて気分を変え現在があります。これが私の思春期です。
私は、常に一人で戦って来ました。何か事件を起こす時も一人でした。なぜ一人かと言えば、人数が多いと誰かが口を割るからです。私の趣味は発明でした。中三の時、門司市の発明展で特選と天賞と人賞と佳作を取りました。賞品を受け取る時、リュックサックを持って行って貰って来ました。毎日新聞に私の記事が載りました。私は小学校の時より、工作が好きでした。工作を始めると、もう夢中でした。中学の時、発明展がある事を知り、夢中で夜も寝ないで作品を作って、出品しました。しかし勉強はほとんどしませんでした。 高校の成績も入学時230人中60番でしたが、退学の時は、225番でした。授業が、受験対策中心で、まったく面白くなかったので、一度も宿題をして行きませんでした。とにかく勉強が嫌いで、暇さえ有れば、発明品の試作をするか、バイクを分解したり組立てたり、乗り回していました。私の作った会社は大会社の下請けでしたが、会社を作って15年目に、オイルショックで倒産しました。それで下請けは、不景気に成ると仕事がなくなり、倒産すると考え、メーカーになる決心をしました。新製品を作って、もしヒットしてもすぐ物まねのコピー商品が出るだろうと考え、特許を取る事にしました。幸い、発明が趣味でしたので、うまく行き、今私の発明の特許は約180件有ります。一番売れている浄水器の特許製品は、一年間に140億円の売り上げがあります。人は何か長所があります。それを見つけて伸ばすと、人生に自信と希望が生まれます。皆さん、ガンバッて下さい。
(2015年6月)
長谷川 寿一 Toshikazu Hasegawa
Profile
東京大学教養学部教授
川崎市出身。東京大学文学部心理学科卒、同大学院博士課程修了。文学博士。前東京大学理事・副学長(2013〜15年)。専門は、動物行動学、進化心理学。イヌの研究もする愛犬家。kikulog プードルで検索して下さい。
東京の思春期の皆さん、ときどきはアフリカの森に住む遠い遠い親戚のことも考えてみて下さい。
今から30数年前、アフリカで野生のチンパンジーを追いかけ調査する日々を送っていた。チンパンジーにはヒトのような明確な思春期はないが、約5歳で乳離れしてから約15歳で一人前になるまで、若者たちは彼らなりに試練の時代を過ごしていた。チンパンジーはオトナオス同士の絆が大変に強く、若いオスたちはそのネットワークに入る準備をする。派手な示威行動ができないと一人前とみなされないので、若者オスはわざとオトナメスの嫌がることをしたり、求愛行動のまね事をしたりしていた。他方、若いメスは母性行動の準備だろう、子守りが大好きだった。ヒトとチンパンジーの最大の違いの一つは、積極的な教育の有無だ。チンパンジーでは誰も何も教えてくれない。自ら学び取るだけだ。人間はとくに思春期に教育を通じて多くを学び、自分を律して成長する。遺伝的にはごく近いこの2種がどうしてこれほど違う道筋に進化したのだろう。東京ティーンコホート研究では、人類進化の研究にもつながる貴重なデータが蓄積されている。東京の思春期の皆さん、ときどきはアフリカの森に住む遠い遠い親戚のことも考えてみて下さい。
(2015年12月)
小宮山 泰央 Yasuo Komiyama
Profile
トヨタ自動車株式会社
東富士研究所勤務 1986年入社
WRC(世界ラリー選手権)、GT(国内ツーリングカー選手権)、CART(アメリカ チャンプカー選手権)、スーパーフォーミュラ(フォーミュラニッポン)、F1等のトヨタが参戦する国内・海外の主要レースのエンジン組付けと開発試験を担当。2014年から2016年までトヨタF1プロジェクトの拠点ドイツTMGに出向してF1エンジンの組付けと車両のテストチームに帯同。現在はルマン24時間レースを始めとするWEC(世界耐久選手権)用エンジン組付けチームのリーダー。自身もドイツで行われるニュルブルグリング24時間レースに参戦に向けて活動を展開中。
自分が10代に受けた影響は大きく、それを研究されている皆さんの成果が、未来を担う子供たちの将来に役立つことを期待しています。
私は現在、トヨタ自動車(株)東富士研究所に勤務し、レース(モータースポーツ)用エンジンの組付けを担当しています。小学生の頃から車が好きで、雑誌を見たり、中学時代には自宅から15キロぐらいのところにある富士スピードウェイまで、毎週末のように自転車で通ったりしていました。将来は何になりたい…というような大きな希望はありませんでしたが、中学以降の進路を決める時に、トヨタや日産という大きな自動車会社の中には企業内訓練校があり、勉強しながら仕事を学び、給料を得、高校卒業の資格も得られるということを知って、トヨタ工業高等学園に入学しました。親元を離れての全寮生活と厳しい先輩や指導員に囲まれて自立心も向上しました。在学時代にこっそりレーシングカートを買ってレースに出たり、一人で鈴鹿サーキットへ行ったりしていたことが通じてか、卒業後の配属はレース用エンジンの開発部署に配属されました。また、仕事以外にも趣味として自分の車でサーキットを走ったりしています。
そのような行動から、自他ともに認めるレース好きと言われますが、一見華やかなレースの世界は、決してミスの許されない厳しい技術開発競争の場でもあり、苦労の連続です。 それをやり遂げた時の達成感は何事にも代えがたいものですが、今こうしてそういう場所に居られるのは、自分は一貫して車が好きで、それを通じた仕事で何かの役に立ちたいという思いが周囲にも伝わっているからと感謝しています。そういう意味においても、自分が10代に受けた影響は大きく、それを研究されている皆さんの成果が、未来を担う子供たちの将来に役立つことを期待しています。
(2016年6月)
熊谷 晋一郎 Shinichirou Kumagai
Profile
小児科医・東京大学先端科学研究センター准教授
1977年山口県生まれ。新生児仮死の後遺症で、脳性まひに。以後車いすでの生活となる。東京大学医学部医学科卒業後、千葉西病院小児科、埼玉医科大学小児心臓科での勤務、東京大学大学院医学系研究科博士課程での研究生活を経て、現職。専門は小児科学、当事者研究。主な著作に、『リハビリの夜』(単著、医学書院、2009)、『発達障害当事者研究』(共著、医学書院、2008)、『つながりの作法』(共著、NHK出版、2010)、『痛みの哲学』(共著、青土社、2013)など。
みんなでつくる思春期の航路図
人生を一冊の物語にたとえるとしたら、思い返すと思春期は、想定外の急展開が次々に起きた一章でした。体や心の変化を持て余して、なんだか落ち着きませんし、背も視点も高くなって物事の仕組みがわかるようになるにつれ、様々な矛盾や、理不尽さに気がつくこともあります。人と自分の違いにコンプレックスを感じ、「どうせ誰も自分の気持ちを分かってくれない」と萎縮してしまうかもしれません。
かくいう私も、思春期には歩むべき道を見失いかけていました。私は、生まれつき体が不自由で、車イスで生活をしています。周りの健常な同級生たちが、スポーツや恋愛にのめり込んでいる姿があまりに眩しくて、おいてけぼりにされる惨めさと焦りを、ヒリヒリと感じていました。小さい頃には気づかなかった、障害者に対する社会の理不尽さに怒りを感じたりもしました。
でも、想像してみてください。数えきれないほどたくさんの先人たちが、この思春期といういばらの道を通ってきたということを。確かに、まったく同じ物語を生きた人は二人といません。しかし、たくさんの先行く仲間が歩んできた、星の数ほどある思春期の物語の中には、あなたの物語とも重なる共通項があるのです。その先人の足跡は、思春期の道なき道に迷わないよう、足元を照らしてくれます。
私は、同じ障害を持つ先輩から思春期の経験を聞いたときに、「私一人ではなかったんだ」と安堵し、体の力が抜けていくのを感じました。そして、未来に続く道(獣道?)が見えた気がしました。道を踏み外したかに思えた自分の航路にも、確かにそこを通ってきた先人がいたのだという発見は希望でした。確かに、先輩と私の物語には、たくさんの違いがありました。でもそれ以上に、多くの共通項があったのです。
この思春期コホート研究は、多様な思春期の物語を、人類の共有財産として集め、その共通項をみつける試みといえるでしょう。あなたの物語が、「どうせ誰もわかってくれない」と苦しんでいる誰かを、孤独から解放してくれるとしたら、なんと素晴らしいことでしょうか。あなたのかけがえのない物語を、思春期の航路図へと編み上げる壮大なプロジェクトに、ぜひご協力をお願いします。
(2017年1月)
竹澤 健介 Kensuke Takezawa
Profile
2008年北京オリンピック5000m・10000m日本代表
1986年10月11日生まれ。兵庫県姫路市出身。早稲田大学スポーツ科学部卒業。中学時代からトラックの中・長距離で活躍し、早稲田大学進学後、箱根駅伝に1年時から出場、2008年大会では3区で区間1位となり、区間賞を獲得。箱根駅伝往路優勝に貢献した。日本代表として2007年に世界陸上大阪大会で10000m、2008年北京オリンピックには5000m、10000mに出場した。2013年エスビー食品を経て7月に住友電工に入社。
チームを2014年元日のニューイヤー駅伝初出場に導く 以降、チームのエースとしてニューイヤー駅伝3年連続出場に貢献
【主な競技成績】
2007年 箱根駅伝 2区 区間賞
2008年 北京オリンピック5000m・10000m日本代表(早大4年時)
【自己記録】
5000m 13分19秒00(2007年)
10000m 27分45秒59(2007年)
子どもの可能性は無限大。その可能性を信じ、広げてあげることが大人の役割だと考えています。
私は、兵庫県姫路市に生まれ、幼少期を過ごしました。幼い頃に、喘息を患っていた事から、小学生の頃は水泳を習っていました。強化コースに在籍していたので、週に5日みっちり1時間半の練習があり、家に帰るともうくたくたに疲れてご飯を食べながらうとうとして眠ってしまうこともよくありました。夜9時には床に就いていたので、9時間以上は眠っていたと思います。中学から陸上競技を始めましたが、幼い頃に身についた長時間睡眠や練習後の昼寝の習慣は大人になるまで変わりませんでした。大学に入学してからは、他の学生よりも自分の睡眠時間が長く、昼寝も頻繁にする事に疑問を抱いたことがきっかけで、睡眠を研究しているゼミを選びました。学んでいく中で技能学習に昼寝が有効である事や、長時間睡眠が競技力の向上につながることが分かり、「そういうことだったのか、」と腑に落ちた事を覚えています。
私は大学在学中にオリンピックに出場することが出来ましたが、はじめから目指していたわけではありません。そのときそのときに合った目前の目標を達成していくことで少しずつオリンピック出場という結果に近づいていったように思います。
思春期の私の周りにはオリンピック選手はいませんでしたし、ましてや自分がオリンピック選手になるなど、夢にも思いませんでした。私はいたって普通の子どもだったように思います。
まだ将来のことと意識していない幼い頃から、大人が適切な環境を整えてくれたこと、そして何よりも思春期に私の可能性を信じ、接してくれる大人が周りにいたことが、私をオリンピックまで導いてくれたと考えています。
子どもは大人が考える以上の可能性を秘めています。
夢や目標を持つ子どもの可能性を信じ、広げてあげることが大人の役割であると考えます。本研究が子どもの可能性を広げる一助になる事を心から期待しています。
(2017年6月)
木村 太郎 Taro Kimura
Profile
ジャーナリスト
昭和13年(1938年)2月12日合衆国カリフォルニア州バークレイ市で生まれる。
昭和16年日米関係悪化とともに帰国する。昭和39年、慶応義塾大学法学部卒業。同4月NHKに入社。記者として神戸放送局、報道局社会部に勤務する。昭和49年~51年ベイルート特派員、内戦に巻き込まれ戦争の取材に終始したあと、51年~53年ジュネーブ特派員、55年からワシントン特派員としてレーガン政権の誕生を目撃。57年2月に帰国し、「ニュースセンター9時」の4代目キャスターに就任。以後63年4月まで6年間キャスター席に座る。 昭和61年に「第12回放送文化基金賞」、63年に国際報道を通じ、国際理解に貢献したジャーナリストに与えられる「1987年ボーン上田記念国際記者賞」を受賞する。「ニュースセンター9時」の終了とともに63年4月NHKを退社し、同5月木村太郎事務所を開設。 フリーランス記者として新しいスタートを切った。
平成2年(1990年)4月より平成6年(1994年)3月までFNN「ニュースCOM」のキャスター、同4月から平成12年(2000年)3月までFNN「ニュースJAPAN」、同4月より平成25年(2013年)3月までFNN「スーパーニュース」でニュース・アナリストを務める。FNN「Mr.サンデー」に隔週出演中。東京新聞にコラム「太郎の国際通信」を毎週連載中。
私を助けてくれたのは、実力試験という「試練の場」
私の思春期には他人に誇れるような話はありません。
無難に過ごせばそのまま大学へ進学できる一貫校に入っていたのに、無駄な抵抗をして学校をサボるは悪さはするはで高校一年の時に退学になってしまいました。すると、当時名古屋に居た父親は、私を呼び寄せてこともあろうに地元の最も厳しい進学校に転入させたのです。
その高校は定期的に大学入試全科目の実力試験を行い、その成績を順位をつけて公表していたのです。転入直後に行われた試験で、当然のことながら私は一学年四〇〇人の三九八番でした。偉かったのは母親で「まだ下に二人いるじゃないの」と笑って言ってくれたのです。
情けなかったのですが、客観的な評価では誰の責任にもできません。そこで少し努力してみると下に二〇人ぐらいを従えることができるようになりました。そうなると順位が上がるのが面白くなるもので、好きになれそうな科目から参考書に目を通すようになると成績の順位が「どんどん」とではなくとも「そこそこ」に上がるようになり、卒業する頃は一〇〇番を切るぐらいまでになりました。退学させられた一貫校の大学を受験して、なんとか滑り込むことができたのです。
こうなると怖いものはなくなります。大学時代は二度海外へ「遊学」して卒業するのが三年遅れてしまいましたが、それで得たものは後年ジャーナリストとしてやってゆく上で大きな宝物になりました。
「私を採らなければ損をしますよ」と入社試験の面接で胸を張ったのは、ちょっとやりすぎだったかもしれませんが。
いずれにせよ、私を助けてくれたのは実力試験という「試練の場」だったと思います。私の場合、思春期の問題は逃げずに立ち向かうことで克服できたようです。
(2017年11月)
田中 啓二 Keiji Tanaka
Profile
(公財)東京都医学総合研究所 理事長
徳島大学大学院博士課程中退後(1976年)、徳島大学酵素研究所助手、助教授を経て、1996年、東京都医学総合研究所(旧臨床研)分子腫瘍学研究部門部長に就任。この間、1981年から1983年まで米国ハーバード大学医学部へ留学。2002年からは同研究所の副所長、所長代行、所長を経て、2018年から理事長。朝日賞・日本学士院賞・慶應医学賞などを受賞。文化功労者。
読書のすすめ!
高名な画家や音楽家などの自伝を読むと、小さい頃から神童であったかのような煌きが随所にみられる。また一流の優れたスポーツ選手などは小さい時から飛び抜けた資質をもっていることが多いようである。彼らには天賦の才能があって、自然に豊かな未来が約束されているかのように思われがちである。しかし(私見であるが)これは錯覚であり、多分、事実とは異なるように思われる。実は才能に溢れた人間ほど、生涯をかけて努力を惜しまないものである。
少年期、私は落ちこぼれという訳ではなかったが、褒められた経験も乏しく、目立たない平凡な子供であった。貧しくて大好きな本も買って貰えず、月に数回やってくる移動図書館の本を片っ端から借りて貪り読んだ。読書以外には、可愛がっていた柴犬と野原を駆け巡ることが唯一の楽しみであった。このように一言でいえば、冴えない平凡な青春であった。中学、高校、そして大学に進んだが、読書だけは、日々欠かさなかった。経済的な事情から理系に進み、生命科学の研究者として約半世紀、努力することを信条として研究に邁進してきた結果、科学史の片隅に小さな軌跡を残せたかもしれないという程度の実績である。さて読書(様々なジャンルの乱読)が科学の仕事に役に立ったか否かは判然としないが、読書は私の人生を豊かにしてくれたことは確かなようである。実際、読書は知識の宝庫である。少年期の知の創出には、興味の赴くままに大好きなことに熱中することが大切であり、その一つに読書し続けることを強く勧めたい。
発達期の脳は柔らかく無限の包容力があるので、知識の詰め込み過ぎが害になることは全然ない。と同時に感受性が高く無垢な少年期の脳は、様々な刺激に上手く対応できず、時には混乱し傷つき健全性を失い易いという繊細な性質も併せ持っている。実際、豊穣な愛情が絶対的に必要な少年期に、そのような庇護が受けられずに深い翳りを背負って人生に挫折してしまうことも少なくないようである。「東京ティーンコホート研究」は、長い時間をかけて少年期の心の動きや振る舞いを調査する研究であり、様々なストレスに溢れた青春の折々を緻密に観察・記録・分析する学問であると側聞している。このような膨大な時間を要する地道な研究は、成長期の子供たちが抱える多くの悩みの解決にかけがえのないヒントと対処法を与えてくれるに違いない。殺伐とした文明社会の少年たちの心の解放に鋭く迫る「ティーンコホート研究」に期待したい。
(2018年12月)
宮澤 エマ Ema Miyazawa
Profile
女優
1988年生まれ。ラジオのパーソナリティを機に、テレビのバラエティや報道番組、ドラマなどで活躍。舞台『メリリー・ウィー・ロール・アロング~それでも僕らは前へ進む~』で舞台デビュー。その後、『シスター・アクト~天使にラブ・ソングを~』、『Endless SHOCK』、『ラ・マンチャの男』、『ドッグファイト』、『紳士のための愛と殺人の手引き』、『ジキル&ハイド』などミュージカルへの出演を重ねている。2018年12月には三谷幸喜新作ミュージカル「日本の歴史」に出演。
舞台のもつ熱量が、心を揺さぶる
私はアメリカ人の父と日本人の母の間に生まれ、幼い頃から日本とアメリカを行き来していました。移り住むたびに言葉を忘れていたので、親の意向もあり日本のインターナショナルスクールに通うことになった時は、英語を話すことができず強い不安を覚えました。その頃がちょうど一つ目の思春期で、いろんなことが変わりだす時期でした。みんなが将来のことを考え自分で意思決定をし始める頃に、『親の方針で自分の未来が決まっていく』というのが許せなかったのです。抱えている問題は自分で解決できるようなことではないと理解していましたが、それでも相談相手や共感してくれる人が欲しかった。自分の内に閉じこもるタイプだったので、あまり理解してもらえていないという思いを漠然と抱えながら過ごしていました。
そして、新しい学校で演劇部やバンド活動に取り組み、自分の気持ちを表現する場をみつけたことが私にとっての転機となりました。自分の言葉で表現できない場合は、歌や演劇を通じ、他の人の言葉を借りて表現することも出来ました。当時、思春期ならではの葛藤として『自由じゃないこと』に対するもどかしさを抱えていましたが、歌は、表現の中に自由がありました。歌っている時は、自分にしかできないことがあるということを実感できました。思春期の、心の中の『ざわついているもの』は特別なものだと思います。その時が過ぎてしまうと無くなってしまうものだけれど、ものすごいエネルギー量もある。ブログに書くとか絵を描くとか、どのような形であってもいい。「のびのびと自分の意見を言ったり、間違えを恐れずに何かをすることが、もっとあっていい」と感じます。
そういったやりたいことが何なのかわからないことは、よくあることだと思います。悩んでいる人は、お芝居を観てもらうだけでも何かを与えることができるかもしれません。今の時代、エンターテイメントがあふれている一方で、お芝居やミュージカルのように2時間を人と一緒に共有する経験は少ないと思います。お金を払って、そこに足を運んで、時間を共有する経験は、とても贅沢でもあり、自分を変える時間でもあります。毎日がつらくて、突破口がどこにあるのか分からない人は、ぜひ劇場まで舞台を観に来てほしい。その時は何もひっかからなくても、ふとした瞬間に思い出すことがあると思いますし、少しでも何かを感じてくれたら嬉しいです。
(2018年12月)
押切 もえ Moe Oshikiri
Profile
モデル
1979年千葉県生まれ。小学館「CanCam」では2001年8月号~2007年4月号まで、「AneCan」では2007年4月号~2016年12月号まで専属モデルを務める。趣味は料理、読書。特技は絵画。モデル業の他、育児雑誌への連載やプロヂュース業など多彩に活躍。著書「永遠とは違う一日」を2018年に新潮社から出版。
思春期の頃の私は、とても恥ずかしがり屋で人見知り、自分に自信がなくて傷つきやすい子だったと記憶しています。家族や親しい友達と一緒の時は冗談を言い合うのを楽しみ、自分の意見をはっきり伝えることもできましたが、関係が浅い人の前ではそれが怖くて、一気に口数が少なくなってしまう。「もしも誤解されて嫌われてしまったらどうしよう」と、実際に起きてもいないことを考えて胸を痛めることもありました。昔から想像力が豊かだったのですが、悪い方へ向かってしまうことがあったんですね。
また、素直になれないことも多かったです。学校でモヤモヤしたことがあった時、家に帰ってもそれを引きずってしまって「何かあったの?」と聞いてくれる母にうまく伝えられず、ついきつく否定してしまったことが。大好きな母にそんな態度を取った自分がいやで仕方なくて、さらに落ち込みましたね。
大人になった今では、「まあまあ、一度落ち着いて。それから視野を広げて考えてみたら?」とその時の私にアドバイスをしたいぐらいですが、幼かった私はどうしたら視野を広げられるのかさえわかりませんでした。
ただ大人になって振り返ると、そんなひとつひとつの失敗や葛藤、反省の繰り返しによってだんだんと自分の心が強くなったことはたしかです。素直になれない時があったら、その現実を受け入れて、「今度からは意識して自分から心を開くようにしてみよう」と行動するように。また、「誤解されるのがいやだったら、どうすれば理解してもらえるのか」と考えて、自分に向いていた意識の矢印を相手の方へ向けるようにしました。はじめから満足がいくほどはできなくても、「次は」「次なら」と、状況に合わせて考えるようになりました。そのおかげもあって、余計な恐怖心や不安も少しずつ薄らいでいったように思います。恥ずかしがり屋な面は今もまだ少しありますが(笑)、モデルや執筆業、人前でお話をするお仕事の時、自分に自信を持つべきところではきちんと持てるようになりました。
壁に突き当たった時、読書に没頭したり、絵を描いたりしたことで解決につながったことも多々あります。自分の悩みに直接答えを出してくれるような本、または自分の生活する世界なんてどれだけちっぽけなものかと思わせるようなファンタジー作品、なんにも考えずにただひたすら笑える娯楽作品などに、これまで数え切れないほど救われてきました。今もし悩みを抱えていて、じっくりそれと向き合いたいという方は、自分に合う本を探してみてもいいかもしれません。絵を描くことも想像力を使って作業に集中できて達成感を得られるので、一つの事柄ばかり考えてしまうような時にはおすすめです。どちらも私が小さい頃から好きなことですが、趣味や好きなことに愛情を注ぐ時間は、人生を豊かにしてくれるように思います。それが仕事につながることもあるし、同じ思いを共有できる友人との出会いは大きな喜びをもたらしてくれますね。
思春期は初めての経験がどんどん増えていって、急に大人と同じような考え方やふるまいを求められる時期でもあると思います。けれど経験がない分、悩んだり、失敗したりすることもある。自分の中でいろんな視点を持ってじっくり考えることは必要だけれど、どうしても解決できないことがあったら、周りの人を頼ってほしいです。きっと話してもうまくわかってもらえない、なんて思わないで。そう思い込んで、たくさんの遠回りをしてしまった私だから、それを伝えたいです。
これからもものすごい速さで世界が変化し続ける中、柔軟で多角的な考え方に加えて、人を思う気持ちはより大切になってくると思います。私の周りを見回してみると、素直で、思いやりと優しさ、感謝できる気持ちを大切にする人は、どんな分野の方であってもとても輝いています。あなたの心にもある、そんな素敵なところを、いつまでも大事に育てていってくださいね。
(2019年5月)
世田谷区立希望丘青少年交流センター(アップス)
世田谷区立希望丘青少年交流センター(アップス)
東京ティーンコホート研究では16歳時の調査が始まったということですが、今年2月にオープンした世田谷区立希望丘青少年交流センター「アップス」は、まさにそうした思春期の中学・高校生世代から20代の若者を主な対象とした施設です。「家でも学校でもないものを。」というキャッチコピーのもと、サードプレイスとして多くの若者が利用しています。
アップスには自由に過こすことができるフリースペースのほか、ダンスや卓球ができるホール、ハイカウンター席が並ぶカフェ、バンド活動などができる音楽スタジオなどがあります。若者たちは、音楽やスポーツを楽しんだり、何することなくただ仲間といたり、スタッフと話したりと思い思いに過こしています。
イベントなどはあまり行わないようにしていますが、若者の「やりたい」を実現するため「アクション!」というプロジェクトは定期的に行っています。このプロジェクトでは、月に1回、会議を行って次は何に取り組むかを検討し、それを実現するために自分たちで準備から運営を行っていきます。これまでに、「お泊り企画」「ドッジボール大会」「映画会」などのプロジェクトを実現させてきました。今後も若者が自分の「やりたい」を見つけ、失敗を恐れずにチャレンジできるように応援していきたいと思っています。
アップスを利用する若者は、元気そうに見えていても、それぞれが多様な悩みを抱えているようです。学校や家庭のことだけでなく、大人社会への疑問、自分の将来への漠然とした不安、必要以上に周りの目を気にしていて自分らしさを表現できない、「やりたい」ことがないなど、本当に多様です。スタッフとしては、若者の気持ちに寄り添い、若者がポジティブに前進できるように後押ししたいと考えています。そのためには、このティーンコホートの調査結果が、若者と向き合い、応援するために大切な指標になると考えています。1人1人の「やる気スイッチ」はなかなか見つかりませんが、この調査を参考に、若者が自分のスイッチを確実に見つけられるように応援していきたいと思っています。
(2020年1月)
菊水 健史 Takefumi Kikusui
Profile
麻布大学獣医学部教授
1970年鹿児島生まれ。1994 東京大学獣医学科卒を卒業。三共(現第一三共)神経科学研究所研究員、東京大学農学生命科学研究科(動物行動学研究室)助手を経て麻布大学獣医学部に。博士(獣医学、東京大学1999年)。小さいときから動物好きで、長年スタンダードプードルと生活。長谷川寿一先生、眞理子先生のところのキクマル、コギク、マギーの育ての親。
私は鹿児島の田舎で生まれ育ちました。小さいときは川で魚を釣り、森で鳥を捕まえ、自然の中で生きていくことを自然に身に着けた、いわゆる野生児でした。自分が自然の一部であり、命がつながっていることは、荘厳な自然の前で刷り込まれていったと思います。生命の持つ魅力や動植物の共生の成り立ち、そんな漠然とした興味に惹かれて、獣医学の門をくぐりました。その後、行動や脳の働きを知ること、それも社会的な能力、協力や共生、という集団の成り立ちの研究を進めてきました。
人生の中での貴重な経験といえば、イヌと出会ったことです。イヌとのふれあいは小学生のときからあったのですが、実際に家の中でスタンダードプードルを飼ってみると、これは異次元の楽しみでした。イヌは不思議な動物です。不思議、というのは、謎という意味よりむしろ、分かりそうで分からない、という意味です。ホモサピエンスの誕生がいまから20万年前だとすれば、イヌとの共生が(諸説あるものの)、5万年程度とすれば、ヒトの歴史の1/4をイヌとともに過ごしてきたことになります。これまで深い関係になったヒトとイヌ。最近のTTCとの共同研究でもその互恵的関係の成果が見出すことができました。イヌを飼育しているご家庭のお子さんでは、心的スコアが高くなっていたのです。イヌと一緒にいること、それは言葉は通じませんが、進化の過程で培ってきた心の繋がりを生み、難しい時を過ごす子どもたちによい影響を与えたのかもしれません。それは5万年におよぶ共生の賜物といえるでしょう。
現代のお子さんたちは、人工物に囲まれ、電子機器やネット情報に覆いかぶされています。本来の人間の進化過程で過ごしてきた環境とはまったく異なる世界。その中で、まだまだ壊れやすい子どもたちはどのように生き抜いていくのか。多くの課題があるように思います。イヌと過ごすというのは、都会でもできるヒトがイヌとの共生のなかで過ごすことで得てきたヒトらしい生活の一部を補えるのかもしれません。このような研究が発展することで、ヒトらしさ、とはという視点で新しい社会への提案ができればと思っています。
(2020年6月)
長谷川 眞理子 Mariko Hasegawa
Profile
前総合研究大学院大学学長
理学博士。1952年7月18日東京生まれ。1976年東京大学理学部生物学科卒業、80~82年タンザニア野生動物局に勤務、83年東京大学大学院理学系研究科人類学専攻博士課程修了、東京大学理学部生物学科人類学教室助手、英ケンブリッジ大学研究員、専修大学助教授・教授、米イェール大学人類学部客員准教授、早稲田大学政経学部教授を経る。総合研究大学院大学先導科学研究科教授、理事・副学長などを経て、 2017年から現職。日本人間行動進化学会 会長も。専門は、行動生態学、自然人類学。訳書多数。
今の若い人たちは、この社会でどんな状況におかれ、どんなことを考え、喜んだり悲しんだりしているのでしょう?最近の社会の変化はあまりにも早いので、私にはもうわからなくなってきています。こんな事態は、人類進化の長い歴史の中で初めてのことだと思います。ホモ・サピエンスの進化史30万年の中で、また、ホモ属の進化史200万年の中で、こんなに変化のスピードが早かったことはなかったでしょう。その多くは、情報機器や技術に関するものによる変化です。
私はもう、若い世代の学生たちと接する機会が激減したので、自分の体の感覚として、若い世代の人たちの感覚を感じることがなくなってしまいました。しかし、他の大学の学長の多くも、企業のトップや政治家たちも、本当に今の若い世代のことを知りません。
だから、年長の人々の言うことは、もう尊敬されないのです。だって、今の技術も使いこなせないし、使っている人々の間で何が起こっているのかもわからないのですから。世代間ギャップはこれまでにもあったけれど、今はそれがとても深刻な状況だとおもいます。
その中で、私よりも若い世代の学者たちがこのコホート研究に携わり、今の思春期の人たちがどんな暮らしをしているのか、何を考え、何を感じているのか、親御さんたちはどう思っているのかを明らかにしていくのは、とても大切なことだと思います。
私たちの脳と心の基盤は、この200万年、30万年の進化史の中で作られました。しかし、それがどのように実際に働くのかは、現在の環境によります。その環境が、昔の環境とは様変わりしてしまった今、生物学的に作られた基盤としての脳と心がどのようにその変化に対応しているのか、対応できなくて困っているのか、本コホート研究によって、そこを明らかにしていければ、進化学者としての私はとても嬉しいです。
私が嬉しいだけではなく、これからの社会を築くための一助になると信じています。
(2021年2月)
田熊 美保 Miho Taguma
Profile
OECD教育スキル局シニア政策アナリスト
上智大学卒業。ボストン大学大学院修了。フランス国立東洋言語文化大学大学院修了。
国際連合教育科学文化機関(UNESCO)教育セクターを経て、経済協力開発機機構(OECD)へ。
OECD教育局教育研究革新センターにおける外務省派遣アソシエートエキスパートを経て現職。
現在、パリ在住、OECD本部で勤務。OECD東北スクールの立ち上げや、移民の教育政策レビュー、ノンフォーマル教育評価政策幼児教育保育政策分析、Eラーニング事例研究などに関わる。現在、OECD未来の教育スキル2030プロジェクトマネージャー。
ドキドキワクワク冒険しよう!
「大人にあって子供にないもの」「子どもにあって大人にないもの」
それぞれ何があると思いますか?この問いを、他の国の大人と子どもと一緒に対話をすると面白いです。最初、大人には、「経験」や「知識」や「お金」など「目に見えるモノ」の答えが目立ち、子どもは「まだ未完成の存在」として捉えられることが多く、子どもにあって大人にないものの答えがなかなか出てきません。しかし、しばらくすると、「我を忘れて夢中になれる好奇心」や「根拠のない自信」「失敗しても許される若者の特権」「大人のルールを知らないからこそできる発想」などの答えがたくさん出てきます。
これは、今、私が担当しているOECDの未来の教育とスキルを考える「プロジェクト2030」での1シーンです。日本を含む多くの国から10代の若者も大人に混じって対話をしています。この対話を聞いていた時、思春期の思い出が蘇りました。中高生の私は好奇心いっぱいで、色々な事に興味がありました。やりたい事があると、その都度、言葉に出していたように思います。その都度、「無鉄砲」と言われていた気がします。
高校生の時、エチオピアの大旱魃のニュースで、私より小さい子や同年代であろう子の姿がテレビで映し出され、生まれた国や地域によって、生活の環境がこんなにも異なる社会の不条理を目の当たりにしました。以来、発展途上国の課題や文化に関心を持って、「マサイ族について、知りたい。一緒に暮らして、家を作りたい!」と言い出した私に、家族と友達は応援してくれましたが、「そんなのできっこない」や「危ない」と多くの大人の方に言われました。ですが、「できる!」「やりたい!」と願う想いを口に出したり、地道に行動をとることによって、味方になってくれる大人の方が増えていきました。大学生の時に、ドキュメンタリー企画書として出してみたところ、理解ある大人の方の目に留まり、実現することができました。
思春期の皆さんは、大人にはない「想い」を持っています。多感で繊細な時期だからこそ見えるものがあります。未来を語る時、大人は、過去の経験則から、現状を分析したり、未来を予測したりすることは得意です。思春期の皆さんは、過去の経験値が少ない分、無限大の可能性を信じて、過去にはない発想をすることができます。過去や今日の常識にとらわれず、自分の中にある「ドキドキワクワク」のスイッチを押して、冒険してください。そして、皆さんがやってみたいと思うことは、周りの大人の顔色をみずに、素直に「言葉」に出してみてください。そうすると、安心して話せて、大人の「カタ」にはめようとせず、失敗しても見守ってくれるロールモデルに出会える可能性が広がります。私自身もそうでした。高校生の時に感じた「心の中の熱いもの」は、今もなお熱を持って、世界の教育の未来を考える上で、私を支えてくれています。
(2021年7月)
笠井 清登 Kiyoto Kasai
Profile
東京大学大学院医学系研究科精神医学・教授
1995年に東京大学医学部を卒業後、東京大学医学部附属病院や国立精神神経センターなどで精神科臨床のトレーニングを積む。2000年~2002年にハーバード大学医学部精神科にて精神疾患のMRI研究に従事。帰国後、再び東京大学医学部附属病院精神神経科で臨床、教育、研究に従事、2008年から現職。2003年に日本生物学的精神医学会学術賞、2008年に日本神経科学学会奨励賞を受賞。
成人になるみなさまへ
2012年にスタートした東京ティーンコホートですが、本年で10年となります。10歳のときにはじめて参加してくださったみなさまも、とうとう成人を迎えますね。10歳のとき、みなさまは、大人になったらどういう仕事につきたい、とか、はっきりとしたイメージがありましたか?また、その頃抱いていた夢を覚えていますか?覚えていなくて当たり前だと思います。もし具体的なイメージがあったとしても、10年経ってみて、どうでしょう?全く違う道に進んでいる人も多いのではないでしょうか?
2012年といえば、東日本大震災の翌年でしたが、当時、日本全体で防災が叫ばれましたね。しかし、今回の新型コロナウイルス感染症の流行のような事態を予想していた人はいたでしょうか?正直なところ、世界中のだれ一人として予想していなかったのではないでしょうか。これを書いている私も、精神科医として、東日本大震災後のこころのケア活動に長期的にかかわってきましたが、COVID-19のような災害は全く想定できていませんでした。
このように、10年経つと世界は想像できないものに変わってしまいます。その時代に社会で求められる力や価値観も、10年経つと変わってしまいます。そうなると、親や教育者は、自分たちが自分たちの時代にうまくいった価値観を、子どもたちに押し付けてよいでしょうか?子どもたちが成人したときには、もう役に立たなくなるかもしれません。一方で、このような変動の激しい時代においても、変わらず人として10代に育んだ方がよい大切なこともあるはずです。
私は現在50歳です。10歳の頃は自他ともに認める暗い子どもでした。10代も明るく過ごしたとは言い難いですが、それ以外、以上にやりようがなかったと今でも言えるくらい、人はどう生きているのか、自分はどう生きればよいのか、を考えていました。そのことがこれまでとこれからの自分を創っているように感じます。
何が変わり、何が変わらないのか。東京という世界的な大都市で10代を暮らしたみなさまのご協力により得られたかけがえのない知恵が、みなさまの次の世代の子どもたちが学校で学ぶ内容や、これから都市化や高齢化が進む世界中の国の若い人たちが幸せに暮らすために役に立っていくことと思います。もちろんみなさま自身がこれからの多難な時代に人として生きる喜びを見出していけることのお役にも立てることを願って、これからもこの研究をみなさまと一緒に長く続けていきたいと思います。
(2022年4月)
石井 綾華 Ayaka Ishii
Profile
特定非営利活動法人Light Ring. 代表理事
福島県郡山市生まれ。2010年こころの病予防プロジェクトa.light(アライト)を設立。2012年よりNPO法人Light Ring.として、子ども・若者の孤独・孤立対策、自殺対策に携わる。若者自殺対策全国ネットワーク共同代表、作新学院大学客員准教授、自殺総合対策東京会議委員等を務め、支える立場の子どもや若者を社会的に支援するオンラインの居場所(rings)等を行う。精神保健福祉士。
思春期の頃の私は、いつも自分に自信がなく、怯えながら生きていた子だったと記憶しています。周りに相談することができずに、生きることが苦しくなり、摂食障害を発症して自分の心と体のSOSに初めて気がつきました。そのような時期を過ごし、こころの病予防プロジェクトa.lightという団体を立ち上げました。この団体での精神疾患への関心を深める取り組み、自由時間を一緒の場で過ごすCofreetimeの取り組みなどを通して、どうすれば心の病は治るのか、心の病はなぜ病とされるのか、などを考えました。その結果、「身近で気持ちを受け止めてくれる人が増えれば、心の病は予防が可能ではないか」という仮説を持つことになり、現在の孤独・孤立対策、自殺対策に焦点を当てたNPO法人Light Ring.となりました。活動を行う中で、悩みを抱える本人だけではなく、支援者支援が必要とされていることを実感しています。まだまだ、支援者支援は理解が少ないですが、全国の仲間に支援を届けられるように活動を続けています。現在は、ゲートキーパーと呼ばれる支え手の方々(子どもや若者の身近な友人や恋人等身近な人)のために、オンラインで繋がる場ringsに最も力を入れています。
思春期は、自分自身や学校や仲間、家族に向けてさまざまな悩みを抱えやすい時期ではないでしょうか。自分でも感情の揺れ動きを取り扱うことが難しい時には、周りの人に話してみたり、相談窓口も利用してみてください。助けてくれる人や情報を活用して、自分はひとりではないことを知ってくれたら嬉しいです。もし心の余裕があれば友達や大事な人の話を受け止められると、更に良い人間関係が広がっていきます。
世界の進化はとても早く、私たちに求められるものは多種多様に変化していきますが、「人を想う気持ちとつながり」はより大切にされるものと考えています。あなたの身近な人を大切に想う気持ちをこれからもどうか大切に過ごしていってくださいね。
(2022年 10月)
鶴澤 友之助 Tomonosuke Tsurusawa
Profile
人形浄瑠璃文楽座 三味線奏者
1980年大阪府堺市生まれ。ピアニストの父とヴァイオリニストの母のもと、幼少よりクラシックギター、エレキベースに親しむ内に低音楽器に惹かれ始める。その後、コントラバス奏者を目指し 故 奥田一夫氏に師事。音楽大学受験を直前に入院し断念。退院後、かねてより興味のあった文楽の三味線の低い音色に惹かれ文楽の世界へ。
2002年7月 豊澤龍爾と名のり、国立文楽劇場で初舞台
2017年5月 鶴澤清友門下となり、四代 鶴澤友之助と改名
その経歴を活かし、2018年 狂言風オペラ「フィガロの結婚」、2022年 オリジナル作品「琵琶法師耳無譚」、2023年 韓国現代美術家ヂョン・ヨンドゥによる映像作品「百年旅行記」を作曲、演奏するなど活動の幅を広げている。
18才の冬、僕は大学受験に失敗しました。いや、そもそも試験を受けることができなかったので失敗すらできなかったと言った方が正しいかもしれません。
両親が音楽家ということもあり、小さいころからいろんな楽器を演奏してきた僕は、ずっと「将来は音楽で食べていきたい」と思っていました。でも実際にどうやって?という決め手はなかなかなく、世界中の民族音楽を聴いたり、様々な楽器を習ってみたり、楽しかったけど不安で、霧の中にいるような気持ちでした。
そんな中、高校1年生で出会ったのがコントラバス。いい先生に恵まれたこともあってすぐに夢中になりました。クラシックギター・エレキベース・フラメンコギターと、興味がある楽器はすぐに飛びついて習ってきたので、初めは同じように弾けるようになりたいとしか考えてなかったのですが、高校二年生の頃に先生が「芸大に進学しては?」とおっしゃって。演奏はともかく、音楽理論もピアノ演奏も何も準備してない!ということで、1年で準備しなければいけない大騒動でした。
そんなこんなで迎えた実技試験前日。コントラバスの練習をして早めに寝たその夜に異変がおきました。激しい腹痛で目が覚め、そのまま救急車で運ばれて緊急手術。盲腸が破裂し、腹膜炎になっていたんです。翌日目が覚めたとき、もう試験時間はすぎていました。
みんなが試験結果に一喜一憂しているころ、僕は1カ月、病院のベッドの上にいました。「高校はもう卒業してしまうのに、何もきまっていない。ここまでがんばったことが全部無駄になった。親にも迷惑をかけてしまった。これからどうしよう。」そんなとき思い出したのが文楽の研修生募集でした。
実はその1年ほど前、たまたまテレビから聞こえてきた文楽の三味線の音がすごくいいなと思って、これも他の楽器と同じように習おうと、劇場に電話していたんです。でも「高校を辞めないと研修生になれないよ」と言われてその時は断念しました。そのことを、病院のベッドの上で思い出したんです。
その翌年研修生になり、初舞台から20年。文楽三味線奏者として舞台に立っている自分がいます。
10代のころは、無限の選択肢の中で、自分が何を選べばいいのか、その選んだことが本当に自分にあっているのか、ずっと続けていられるのか、先が見えなくて不安だと思います。僕から伝えられることは、見える範囲のことの積み重ねが、先の自分になるということ。それをやり続けたらどうなるか、その先は誰にもわからないし、やり続けられるかもわかりません。僕は芸大には行けなかったけれども、あのときの芸大受験で勉強したこと、洋楽の知識、洋楽器の演奏技術は、今僕にしかない技術として文楽の舞台に生きています。
今夢中になっていることを、一生懸命やってください。進んでいると実感はなくても、それは絶対にあなたを一歩前に進めています。その時の経験は、決して無駄になりませんよ!
(2024年 2月)